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旅行情報

西門町の名の由来は日本統治時代に遡ります。当時人々は台北城という区域に暮らしており、西門町は最高の憩いの場所となっていました。1896年、ここに映画館第一号となる「東京亭」が創設され、1922年、正式に西門町と命名されました。 西門町はもともと映画産業を中心にして発展を遂げた街です。当時ほとんどの映画館が峨嵋街、成都路、西寧南路に集中していたため、これら地域が自然と西門町の中心地となりました。民国38年(1949年)、国民党政府が台湾に遷都し、大量の資金がここに注ぎ込まれました。そのため、映画館はもとよりデパートやその他の娯楽施設が相次いで出現です。中華商場がオープンしてからは、西門町は名実ともに国内最大の商業娯楽活動の中心地となりました。 民国80年代(1991年以降)、台北のビジネス、レジャー活動は次第に「東区」へと移っていきました。それに加え、中華商場の取り壊しと再開発にかかわる道路工事により、しばらくの間、客足が遠のいていました。MRTの板南線が開通にこぎつけ、ようやくかつての活気を取り戻しました。中華路は台北市政府の都市開発計画により、台北のシャンゼリゼ通りとして生まれ変わりました。これだけでなく、大小のイベントスペースや活動スペースも雨後の筍のように現れ、週末ともなると、文芸活動や運動、ライブ活動などを行いに大勢の人が足を運ぶようになり、「西区」が息を吹き返しました。 現在の西門町は歴史検証としてだけでなく、新しい流行・文化の発祥地としての役割をも担っています。多くの中高齢者がここで思い出話に花を咲かせる一方、流行のファッションに身を包んだ若者たちが肩を並べるなど、まったく異なった生活スタイルがここで交流され、それぞれのニーズを満たしています。

台北市立美術館のそばに、御伽噺に出てきそうな可愛い洋館があります。美術館を訪れた人はもちろん、中山北路を円山方向に行き来する人たちも、ふと目をやってしまいます。面白いことに、台北市民にすっかり馴染んだ建物なのに、そのほんとうの名前を知る人は少ないです。ただ「美術館のそばの小屋」と呼ばれたり、あるいは「洋食屋」あるいは「ケーキ屋」と思われたりしています。この謎の建物が2003年、「台北故事館」として新しいスタートを切りました。台北の物語を綴る建物としてです。 信じられないかもしれませんが、台北故事館はすでに九十年の歴史があります。日本時代の1913年に建造された故事館ですが、他の同時期の日本の建築物とは相当にその趣を異にします。故事館は台湾では唯一のチューダー式洋館で、一階の外壁は赤レンガで覆われ、二階は木造になっています。壁の地はクリーム色で、曲線が面白い自然材が装飾に使われています。遠くから見るとまるでメルヘンの森の小屋です。 茶商の別荘だった この小さな洋館が誕生したのは1913から1914年にかけます。当時台北市内の茶商の同業組合「台北茶商公会」の初代会長である陳朝駿が円山の基隆河畔に一棟の英国風の洋館を建て(「円山別荘」)、取引先や政界との交際に利用しました。これが故事館の発祥です。 陳朝駿はこのチューダー式建築のために、オランダの東印度会社から設計図を取り寄せ、日本人に建設を委ねました。二階建てで、さらにペントハウス(屋根裏部屋)がついています。現在敷地は約80坪と小さいですが、当時は現在の市立美術館背後の花園や馬場が付設されていた広大なものでした。正門が大通りですが、後ろは基隆河に面しているため、陳朝駿はそこに小さな船着場を設けました。ここから客を乗せて現在の迪化街にあった店の様子を見せたらしいです。二階のベランダからは、現在の圓山飯店あたりの台湾神社が目の前で、はるか彼方には基隆河を美景が望め、「台湾百景」の一つを称されました。 陳朝駿が亡くなったあと、この洋館は刑場になったり、国会議長の住宅になったり、商品の展示場になったり数奇な運命をたどり、1979年に台北市が手に入れ、市立美術館の管理に委ねました。一時「美術家交流センター」に使われていましたが、1998年になって、「円山別荘」として市の史跡に指定されました。その後、市の文化局の手でNT$2500万元をかけて修復工事が施され、台北の文化・芸術・音楽・芝居をテーマにした「台北故事館」として新しいスタートを切ったのです。 台湾では稀少な建築 一階がレンガ造り、二階が木造です。自然な木材の曲線を水平に利用したデザインはひときわ優美で、英国「チューダー式」の建築の特色をよく表しています。屋根は銅葺きで、一面の緑青が歳月を物語っています。正面ペントハウスの窓は緑・黄・赤三色のステンドグラスでです、夜間はとくに美しいです。玄関の半円形の小さな階段は、ギリシャスタイルに19世紀の新古典主義の風格が融合しています。入ったところのロビーは現在は展示室になっていて、二階にもロビーにも暖炉があります。その外観の装飾は極めて個性的です。こうした自然の花や草を図案にしたのは二十世紀初頭の流行で、故事館のあちこちにその応用がみられます。古今台湾では例の少ない建築スタイルです。 外観は洋館でも、一階のインテリアは中国風で、二階はもともと日本式のタタミでしたが、いまは小型の展示室と視聴室になっています。資料や書籍が陳列され、定時にビデオが放映されています。二階のベランダからは円山付近の山々が目の前です。 故事茶坊 台北故事館そばの「故事茶坊」は、リッツタイペイのフレンチレストランが経営しています。ビジネスランチや季節のコースのほか、英国風のアフタヌーンティがお奨めます。大きくとられた窓からは台北故事館と融合した付近の景色が望めます。屋外やベランダにもテーブルがあるので、黄昏時には美術館・基隆河・圓山飯店などを愛でながらのミルクティが楽しめます。ロビー一階の出口には「生活小芸坊」があり、台湾創作家の作品のほか、陶器、花布、復刻された絵葉書などいろいろ昔懐かしいお土産も売っています。

國父紀念館は台北市の信義區にあります。忠孝東路、仁愛路、光復南路と逸仙路に囲まれています。國父紀念館は中華民國の國父孫文氏の誕生から百年を記念して建てられました。全部面積は35000坪あります。現在では記念館、戶外運動、レジャー、芸術文化活動の機能を持った総合公園となっています。

林安泰古厝(邸宅)は中国の伝統的な四合院民宅建築で、160年以上の歴史があり、台北市で最も完全な状態で保存されている古蹟です。もとは四維路にありましたが、1978年に新道路建設によって取り壊されましたが、政府は古跡として保存するために、移して復元することに決定し、1987年に現在地で完成しました。そのうち瓦は老朽化していて破損してしまっていたので新しい物に交換した以外は、石材、木材のほとんどは、もとの物を使ったので歴史的な価値を持っています。林安泰古厝は民間の地理風水の習俗を採用して建てられたミン南式の古住宅で、全体は上品で確りして、主従がはっきりし、配置の均整がとれており、さらに材料の選別と細工は非常に精緻なので、中国伝統建築のよい見本であるとされています。

忠烈祠は圓山飯店の近くにあり、後ろに山をひかえ、基隆河に面しています。1969年に建てられました。主要建築は北京にある故宮の太和殿をまねて作られ、雄大かつ壮麗な雰囲気は、義のために自己を犠牲にした英雄たちの精神を象徴しています。忠烈祠は周囲に1万余坪の芝生が広がり、さらに峰を連ねた山々に囲まれています。中華民国成立に犠牲となった革命烈士、抗日戦争及び国共戦争で亡くなった33万人の兵士がここに祭られています。大殿内の四方には烈士の位牌が置かれています。 毎年春と秋に、国家元首が政府高官を率いて訪れて、また、台湾を訪れる友好国の元首や政府要人たちもここで花束を捧げます。10月、中華民国の建国を記念する双十節前後には海外から帰国した華僑たちが団体でこの地を訪れます。ここでちょっと、忠烈祠正門前の衛兵にご注目を!厳粛な顔で微動ともしません。1時間毎に行われる衛兵の交代式も一見の価値があります。

『西門紅樓』は1908年、東京帝國大學卒業の建築師、近藤十郎氏により設計されました。『八卦造型』により建築された市場入口、『十字架造型』により建築されています。また日本第一代建築師『辰野金吾風格』の特徴も見られます。 八角堂の二階には約6メートルの高さの天井があり、それを支える16のの梁が太陽が光を放射しているように広がっています。近代建築中でも非常に稀少な工法で、その壮観な景観は一見の価値があります。 日本統治時代にはここでは簪針、盆花、書報、藥品、玩具、日本土產等様々な雑貨が販売されていました。十字樓市場では肉製品の缶詰や日常用品が販売されていました。 また西門紅樓劇場はその名称が時代とともに度々改名されてきました。1949年=「滬園京劇」1951年=「紅樓書場相聲」1953年=「話劇-台灣小劇場」1963年=「電影」1997年=「古蹟電影博物館」、「西門紅樓」 2000年7月=火災により倒壊2002年=再建され「紅樓劇場」と命名される 現在では八角樓の一階は商品販売、レストラン、展示コーナーの三つのコーナーが設置され、二階は劇場となっています。不定期で藝文演出や様々なイベントが行われています。十字樓は文化創意のプラットフォームとされ、文化創作者に様々な発表、展示等のサービスを提供しています。

『龍山寺』は正式には『艋舺龍山寺』(もうこうりゅうざんじ、マンカーロンシャンスー)と称しますが、地元でも『龍山寺』と呼ばれることがほとんどです。 1738年、福建省泉州から渡来した人々により、福建普江安海龍山寺の分霊として創建されました。台北市内で最古の寺院であり、国家古蹟であると共に、台北101、故宮博物院、中正紀念堂と並ぶ台北市の「四大外国人観光地」とされています。 本尊は観世音菩薩ですが、現在では道教や儒教など様々な宗教と習合しており、孔子や関帝(関羽、三国志で知られる)、媽祖など、祀られている神は大小合わせて100以上にも及びます。人々は様々な神が祀られた7つの香炉を順に廻りながら、それぞれの神に参拝します。 地震や火災によって何度か損傷し、また日本統治時代には学校として接収されるなど苦難の時代もありましたが、その度に再建・修理がなされてきました。また1986年、戒厳令に基づく言論統制に反対する人々が決起した519緑色行動の舞台となった場所でもあります。

袖珍博物館には欧米各地でも最も有名な作家の手になるドールハウス、各々の部屋を主体にしたルームボクス、更に作者の創意工夫を余す所なく発揮した情景などが数多く揃えてあり、展示作品の数は世界でも一二を争う規模になっています。此処には2000年前のローマの遺跡があり、19世紀のイギリスやヨーロッパの商店や工場から広場風景、ロマンチックなベニスの運河、現世代のアメリカ人の庶民からお金持ちさんの住まい、などが短時間ですべて見学できます。

樹火記念紙博物館は合計4フロアあります。台湾の紙に関する歴史と文物のコレクションの展覧により、より多くの人々により深く理解し、紙と中国文化の切っても切れない価値を高め、伝承したいと願っています。1階:世界各国の手作りの紙の芸術作品、伝統的な手作りでの製紙のパフォーマンスを展示しています。2階:製紙技術の発明と伝播の歴史を詳細に紹介しています。特別展示室では、毎期ごと異なる関連するテーマ内容を展示しています。3階:台湾の製紙の歴史と紙の郷の風貌を認識できます。4階:手作りの製紙工場と、製紙の原料の処理方法を理解し、各種の体験学習イベントを開催しています。

華山1914の文化アイデア産業パーク(別名華山芸の文特区、華山文化パークあるいは華山1914)は、前身は「台北酒の醸造所」として、(英語:Huashan 1914 Creative Park)は、台湾台北市市のために史跡を決定します。1999年後に、芸の文界に与えることを提供することになって、非営利団体と個人使用した芸術は展覧して、音楽演技などの文化イベント場所。また、パーク内に何部屋でものレストラン、店、芸の廊などの商業施設かが同じくあります。
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