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旅行情報

士林夜市は台北市で最大規模を誇るナイトマーケットの一つで、陽明戯院(映画館)、慈誠宮を中心に、文林路、大東路、大南路などにぎやかな通りから成り立っており、なかでも、士林市場は1910年に建てられた古い歴史を有するマーケットです。各種の台湾小吃(B級グルメ)は内外にその名を馳せており、B級グルメを求めてここを訪ねる観光客は後を絶たないです。「大餅包小餅(春巻のようなもの)」、「石頭火鍋」、士林名物、ジャンボソーセージなどはグルメのランドマークにもなっています。 ナイトマーケットの近くには、学校が多く立ち並んでいるため、主要な客層は学生で、価格も一般のお店に比べ割安になっているのが特徴です。家具店、ブティック、DPEショップ、ペットショップなどが軒を連ねているエリアもあります。『情人巷』(恋人通り)と呼ばれる通りに立ち並ぶ小物ショップやかき氷店に、遠くからわざわざ足を運んでくる人も少なくないです。 士林夜市を歩くのはけっこう骨の折れる作業ですが、路地を探索していくうちに隠れた穴場を見つけることもまれではないです。週末ともなれば、人込みでごった返し、家族総出で手に大小の荷物を持ち、B級グルメを口にしながら、満足げな表情で帰っていく光景があちこちで見られます。

大龍ドウは淡水河と基隆河の合流地点に位置し、早くから開発され、保安宮が信仰の中心となりました。保安宮の敷地は広々としていて、1805年から建設が始まりましたが、工事はとても大変なものでした。また、石材、木材は全て中国大陸から運び、廟を建設する棟梁も大陸から招いたので、工事は期間を分けて施工され、25年もかかって完成しました。 保安宮に着くと、廟の前に龍柱の他に、さらに一対の変わった造りをした石の獅子があるのが目に入ります。普通、廟の前にある獅子は一匹が雄、一匹が雌となっており、雄の口は開いていて雌の口は閉じていますが、保安宮の前の獅子は両方とも口が開いています。この一対の獅子は、獅子ではなくて、その中の一匹は仁獣、もう一匹は法獣で、廟の前にいて、法律を重視し、仁政をするように大きな声で叫んでいます。 廟の中に入ると、多くの彩色画、彫刻や塑像があり、鑑賞に値します。正門前の廊下の回りを見ると、多くの動物の彫刻や塑像が目に入ります。これらには装飾としての役割のほかに、さらにもう一つの意義があります。例えばコウモリは「福」を、四匹のコウモリは「賜福」を、鹿は「禄」位(俸禄と爵位)を、鶴は「長寿」を表わします。 正殿前の空間へ来ると、主神のほせいたいてい保生大帝の列祖神尊(歴代に伝わってきた違った仏像)を見ることができます。保生大帝は中国大陸福建省同安県出身の呉滔(979年─1036年)という人で、医術に精通していて、世の中の人々の治療をして救っただけでなく、「点龍眼、医虎喉」の伝説も有ります。彼が死去した後、よく霊が現われ、人々の災害を除き、疫病を治療したので、宋の皇帝高宗は1151年に彼のために廟を建立し、さらに孝宗は1171年に彼を「大道真人」に封じました。よって保生大帝は「大道公」とも呼ばれます。その他、両側にまつられている三十六官将仏像は1829年に泉州の名匠許厳を台湾へ招聘し5年かけて完成した彫刻です。彫刻は細かく、仏像は真に迫った物です。同時に壁に中国の民間故事を描いた七枚の彩色画のあることに気がつきます。 鼓楼の下の中心には註生娘娘がまつられており、両側には十二婆姐がまつられています。十二婆姐は十二ヶ月を分担して人間の生育を専門に掌ります。以前の農業社会「多子多孫多福気」(子孫が多いほど福が多い)といった観念により、註生娘娘の誕生日には多くの婦人が遠くからも大勢参拝に訪れ、註生娘娘に子宝が授かるように祈ります。後殿は神農殿とも呼ばれ、主神は神農大帝です。言い伝えによると百年ほど前に台北では何ヶ月も雨が降らず、住民は神農に雨乞いをしました。すると間もなく大雨が降り干ばつから救われました。よって住民は神農大帝を迎えて保安宮の後殿にまつりました。 前殿の出口を出て哈蜜街を通り大きく華麗なはいぼう牌坊(鳥居のような門)の中に入ると、そこは保安宮花園です。孔子廟の近くにあることから、「隣聖苑」と名付けられました。苑内は中国庭園の造りとなっており、その中でも水上に作られた卍字橋は古代の心を深く伝えており、気晴らしをするのにいい所でしょう。

行天宮は恩主公廟とも呼ばれ、関聖帝君をまつっています。関聖帝君(162-219年)は中国の歴史上非常に有名な武将です。彼は信義を堅く守ったので、武聖と尊ばれ、また理財にも長けていたので、商業の保護神としても尊ばれています。 行天宮は1967年に現在の場所に建立され、廟は質素で飾り気がなく荘厳です。神殿の前に天公炉があり、天公炉の両側には飛び上がる龍の形をした耳が付き、天空に向いている龍の頭が炉の四ヶ所に付いており、独特な造りをしています。前殿へ入ると大勢の信者が神の前でひざまづき、参拝している光景は非常に敬虔な感じです。天井と呼ばれる広場を抜けると正殿に着きます。供え物をする卓の上には鮮花、清茶しかなく、他の供え物がないことに気がつきます。行天宮では殺生を戒め、いけにえの家畜を備えるのを禁止し、また特に、金紙を焼くこと、演劇を神に奉納すること、ねんごろに金牌の礼を述べる当の行為を止めるように勧めていることや、持参した鮮花や果物以外は、廟が無料で線香やろうそくを提供しています。同時に廟のお堂の前には賽銭箱は設けられておらず、信者の香油代は不要で、伝統宗教界では初めての純朴なやりかたです。 一般の人は行天宮はとても霊験があらたかだと思っているので、神に占いを問いに来る人が大勢います。行天宮の地下のマーケットもほとんどが占いの屋台でいっぱいで、独特な特色があります。 占い地下道へようこそ!行天宮の観光ついでに、訪れたいのがここです。観光客に人気の占いで有名な、行天宮の地下道「占い横丁」です。本場の占い師に、本格的な占いができます。手相、姓名判断、米粒占い、小鳥占い等です。訪れる人のほとんどが日本人観光客なので、日本語OKのブースが多いです。ブースによって占いの種類や料金が違うので直接尋ねるとよいでしょう。

台北市立美術館のそばに、御伽噺に出てきそうな可愛い洋館があります。美術館を訪れた人はもちろん、中山北路を円山方向に行き来する人たちも、ふと目をやってしまいます。面白いことに、台北市民にすっかり馴染んだ建物なのに、そのほんとうの名前を知る人は少ないです。ただ「美術館のそばの小屋」と呼ばれたり、あるいは「洋食屋」あるいは「ケーキ屋」と思われたりしています。この謎の建物が2003年、「台北故事館」として新しいスタートを切りました。台北の物語を綴る建物としてです。 信じられないかもしれませんが、台北故事館はすでに九十年の歴史があります。日本時代の1913年に建造された故事館ですが、他の同時期の日本の建築物とは相当にその趣を異にします。故事館は台湾では唯一のチューダー式洋館で、一階の外壁は赤レンガで覆われ、二階は木造になっています。壁の地はクリーム色で、曲線が面白い自然材が装飾に使われています。遠くから見るとまるでメルヘンの森の小屋です。 茶商の別荘だった この小さな洋館が誕生したのは1913から1914年にかけます。当時台北市内の茶商の同業組合「台北茶商公会」の初代会長である陳朝駿が円山の基隆河畔に一棟の英国風の洋館を建て(「円山別荘」)、取引先や政界との交際に利用しました。これが故事館の発祥です。 陳朝駿はこのチューダー式建築のために、オランダの東印度会社から設計図を取り寄せ、日本人に建設を委ねました。二階建てで、さらにペントハウス(屋根裏部屋)がついています。現在敷地は約80坪と小さいですが、当時は現在の市立美術館背後の花園や馬場が付設されていた広大なものでした。正門が大通りですが、後ろは基隆河に面しているため、陳朝駿はそこに小さな船着場を設けました。ここから客を乗せて現在の迪化街にあった店の様子を見せたらしいです。二階のベランダからは、現在の圓山飯店あたりの台湾神社が目の前で、はるか彼方には基隆河を美景が望め、「台湾百景」の一つを称されました。 陳朝駿が亡くなったあと、この洋館は刑場になったり、国会議長の住宅になったり、商品の展示場になったり数奇な運命をたどり、1979年に台北市が手に入れ、市立美術館の管理に委ねました。一時「美術家交流センター」に使われていましたが、1998年になって、「円山別荘」として市の史跡に指定されました。その後、市の文化局の手でNT$2500万元をかけて修復工事が施され、台北の文化・芸術・音楽・芝居をテーマにした「台北故事館」として新しいスタートを切ったのです。 台湾では稀少な建築 一階がレンガ造り、二階が木造です。自然な木材の曲線を水平に利用したデザインはひときわ優美で、英国「チューダー式」の建築の特色をよく表しています。屋根は銅葺きで、一面の緑青が歳月を物語っています。正面ペントハウスの窓は緑・黄・赤三色のステンドグラスでです、夜間はとくに美しいです。玄関の半円形の小さな階段は、ギリシャスタイルに19世紀の新古典主義の風格が融合しています。入ったところのロビーは現在は展示室になっていて、二階にもロビーにも暖炉があります。その外観の装飾は極めて個性的です。こうした自然の花や草を図案にしたのは二十世紀初頭の流行で、故事館のあちこちにその応用がみられます。古今台湾では例の少ない建築スタイルです。 外観は洋館でも、一階のインテリアは中国風で、二階はもともと日本式のタタミでしたが、いまは小型の展示室と視聴室になっています。資料や書籍が陳列され、定時にビデオが放映されています。二階のベランダからは円山付近の山々が目の前です。 故事茶坊 台北故事館そばの「故事茶坊」は、リッツタイペイのフレンチレストランが経営しています。ビジネスランチや季節のコースのほか、英国風のアフタヌーンティがお奨めます。大きくとられた窓からは台北故事館と融合した付近の景色が望めます。屋外やベランダにもテーブルがあるので、黄昏時には美術館・基隆河・圓山飯店などを愛でながらのミルクティが楽しめます。ロビー一階の出口には「生活小芸坊」があり、台湾創作家の作品のほか、陶器、花布、復刻された絵葉書などいろいろ昔懐かしいお土産も売っています。

士林官邸は"蒋介石"氏の住んでいた所としてよく知られています。日本植民地時代は士林試験分所として利用されていました。国民党政府の台湾移転と共に蒋介石氏と宋美齢夫人が住むようになりました。1996年8月1日に一般公開され、現在では常に開放されています。遠足や散歩、デートスポットとして訪れる人も多く、さまざまな花園に満開のいろいろな花を観賞することができます。周辺には公園や有名な『士林夜市』、『故宮博物館』があります。

『龍山寺』は正式には『艋舺龍山寺』(もうこうりゅうざんじ、マンカーロンシャンスー)と称しますが、地元でも『龍山寺』と呼ばれることがほとんどです。 1738年、福建省泉州から渡来した人々により、福建普江安海龍山寺の分霊として創建されました。台北市内で最古の寺院であり、国家古蹟であると共に、台北101、故宮博物院、中正紀念堂と並ぶ台北市の「四大外国人観光地」とされています。 本尊は観世音菩薩ですが、現在では道教や儒教など様々な宗教と習合しており、孔子や関帝(関羽、三国志で知られる)、媽祖など、祀られている神は大小合わせて100以上にも及びます。人々は様々な神が祀られた7つの香炉を順に廻りながら、それぞれの神に参拝します。 地震や火災によって何度か損傷し、また日本統治時代には学校として接収されるなど苦難の時代もありましたが、その度に再建・修理がなされてきました。また1986年、戒厳令に基づく言論統制に反対する人々が決起した519緑色行動の舞台となった場所でもあります。

『大稻埕』は台北駅の西北方、淡水河川一帶にあります。当初は広大な『曬穀廣場』で有名な場所でした。その後艋舺(地名)は非常に繁栄し、当時の台北城外の新興市区となりました。清末から日本統治時代までの間大稻埕は經濟、社会、文化活動上の要所として栄えました。しかしこの大稻埕の地名は約半世紀で姿を消すこととなります。1920 年 11 月 1 日、日本人が臺灣地方官制及び行政區域改制を実施したことから、臺北廳直轄の艋舺、大稻埕、大龍峒の三区域が撤廃され、臺北市とし、臺北州に編入されました。しかし、名称はなくなったものの、大稻埕はそのまま歴史に埋もれることなく、民間に代代受け継がれ使用されこれまで残されてきました。 大稻埕で有名なのは長い経済発展の歴史を刻んできた『迪化老街』と一年に一度開かれる『年貨大街』。日本統治時代には南北雜貨、茶行といった商店が主で、その後米業、中藥(漢方薬)等も多く見られるようになりました。 大稻埕には『霞海城隍廟』があります。敷地は広くはありませんが、お香が絶えることのない信徒の多い廟です。また台灣基督長老教會大稻埕教會も大稻埕老市区にあります。早期の大稻埕は台灣新文化の啟蒙の地でしたが、同時に通俗文化方面でもその発展に大きな影響を与えました。当時はこの地区の各地で京劇、話劇、布袋戲、歌仔戲等が上演されていました。 写真提供1http://www.wretch.cc/blog/tpytpy攝影者-蛋餅 写真提供2-:http://photo.xuite.net/tmleou攝影者:大景

迪化街は台北市の大同區にあります。大稻埕商圈の最重要とされる通りで、その通りは長さ約800メートルあります。この通りの大部分の建築物は保護されこれまで残されてきたもので、台北市で最も完全な姿を残す『老街』とされています。1920年代末期、第二次世界大戦勃発以前が、迪化街が最も栄えていた時期です。当時は多くの建築物が建築されました。当時多く見られたのが以下4つの建築物です。 *閩南式建築 *洋樓式樣 *仿巴洛克建築(バロック式を模倣した建築)*現代主義式 迪化老街には現在でも特色ある70棟以上の古式伝統建築が残っており、これらを楽しむことができます。また、南街と中街間の『大稻埕霞海城隍廟』も有名な古跡の一つです。 写真提供:http://tw.myblog.yahoo.com/sp88888sp/

『台北偶戲館』の建設は、人形劇に対して強い熱情を持った『臺原藝術文化基金會』の董事長であられる『林經甫』さんが十年にわたってコレクションしてきた人形劇に使われる人形を寄付し、臺北市政府にこれら文学歴史的価値の高いコレクションを保存する施設を作ってほしいという話を持ちかけたことから始まります。台北市政府はこのもちかけのもと、綿密な企画をたて、これら貴重なコレクションを『威京集團京華城社區回饋計畫案』としてまとめ、これを保存することを実現しました。この施設は人形の展示、人形劇の演出、教学、コレクションといった機能を備えた『台北偶戲館』として、2004年8月に正式に開館しました。 『台北偶戲館』は『袋袋相傳-布袋戲區』、『絲絲入扣-傀儡戲區』、『影影約約-皮影戲區』、『偶戲萬花筒-互動體驗區』の4つの単位からなり、そのほかにも『戲偶DIY課程』があり、台湾伝統と現代人形劇の歴史と発展を紹介したり、芸術創意の発展を呼びかけたり、生活素材を利用して自分オリジナルの人形を作成したり、古代.現代人形劇を開演したりと、様々なイベントを行っています。 現在の台湾国内のみにとどまらず、古代及び現代、東方、西方の人形と人形劇芸術を融合させるとともに、国内、国外の人々にそれらを知ってもらい、触れてもらえるようにつくられた施設です。 住所:台北市松山市民大道五段 99 號 2 樓開演時間:(日曜、月曜、国定休日は休館 写真提供:http://tw.myblog.yahoo.com/ck-wang

『台北美術館』は台北市政府が市民生活品質ニーズと文化芸術水準の向上のために民國六十七年(1978年)台北市中山北路三段中山二號公園予定地に建設しました。『高而潘建築師事務所』により設計、建設され、民国七十二年元月に完成し、同年十二月二十四日正式に開館し、市民のためにサービスを開始しました。 台北市立美術館の建築物は非常に独特で、中山美術公園內にあります。建築芸術と自然庭園環境の結合した景観は、外観的芸術構成だけでなく、建築物としての内外的機能性とメンテナンスのしやすさまで考慮して設計されています。 伝統的な四合院建物とモダンな「井」文字のデザインを融合して建てた建築物のロビーは9メートルもの高さを持たせており、この設計にはこの美術館が『文化を活性化させる源である』、という意味を持たせています。壁には一面のガラスを使用して採光をよくし、内部に自然光を入り込ませ、時間帯により光陰の変化を顕著にし自然の変化を感じられるように、との意図があります。 随時さまざまな芸術、美術展覧会が行われており、美術館のある公園内およびその周辺にも散策できるポイントがありますので、台北市内中心を離れてゆっくりと一休みしたい、という場合にはぜひ足を運んで見てください。
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